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  • 孤高の引金 2章

    第2章 ライバル意識

    学校生活では学年に対し2クラスしかなく、クラス替えもなく小学校6年まで続く構造だったが、後々この2クラスの違いは相当な差になってしまう。

    正武がいたのは松組、隣は竹組。松組には結果として荒くれ者の集まりとなった。

    その中で赤井久敏という荒くれ者の一家の男子がいた。周囲からもチー坊と呼ばれやんちゃな少年で、しかし人気があり親分肌でいつも周りに子分を引き連れているようなタイプだった。もう一人武田義人という身長も高く、運動能力も抜群な少年がいた。これはこれで子分を引き連れていた。同じクラスに久敏と義人という2大ガキ大将がいるので、他の子はどちらかに属するような構造にあった。

    そんな中、正武はどちらにつくという事もなく独自の立ち位置で過ごしていた。

    ある日学校でガキ大将同士で喧嘩になったが、喧嘩慣れしている久敏が優勢になり、その後義人は2流のガキ大将に甘んじていくようになった。

    「校内暴力」という言葉が当時中学高校で言われている位、不良少年が流行していた。

    正武のいた松組はまだ小学生だと言うのに、ガキ大将久敏をリーダーに授業はボイコットして外に遊びに行く、タバコは吸うという、「学級崩壊」の走りの様なクラスであった。

    一方、隣の竹組は担任を児童の仲が良く、逆に素行が悪い児童には「学級裁判」なるモノを開き公開で村八分にするという行き過ぎた教育内容でもあった。竹組は優秀、松組は粗悪、というレッテルが貼られ、竹組の子たちからは松組は蔑んだ目で見られていた。

    正武は常に冷静に状況を見ていた。かと言って舐められる事も嫌だったので独自の立場でいたのかも知れない。友人通しでは、とかくあだ名で呼び合う事が多かったが、中には多少馬鹿にした呼び名を付けられることもある中、マーちゃんと呼ばれ一定の立場は認めさせていた。

    女子の中ではさらに多くのグループがあり、リーダーを張っていた子がある日からいじめの対象となり、その座を他のリーダーに明け渡すという仁義なき戦いが繰り広げられていた。そんな中ずっと女子のリーダー的存在であり、男子からはアイドル的存在でもだった青井久美という女子がいた。この久美ちゃんも小5の頃、クラスの女子から総スカンを食らって村八分の存在となった。

    男子もその大勢に沿うように久美ちゃんを避けていたが、正武と友人直也は久美ちゃんと仲良くしていた。久美ちゃんも正武たちが仲良くしてくれているのが嬉しかったのか、学校にはしっかり来て正武や直也と話したりしていた。正武もアイドル的存在だった久美ちゃんが親しくしてくれるのは嬉しかった。

    それを見ていた時世の女子リーダーが、今度はその刃を正武や直也に向けてきた。

    どういった力が働いたのか分からないが、ある日正武が休み時間にいつもの様にクラスの仲間と鉄棒の所にいった途端、男子が正武を避ける様に鉄棒を辞めてクラスに帰ってしまった。

    「あ、今度は俺の番になってしまったのだな」と正武は冷静に受け止め「しばらくは大人しく負けているか」と思った。仲間外れという事を初めて経験したわけだ。

    しかし正武の中にクラスでの女子から、久美ちゃんと付き合うな!というプレッシャーも強く、正武はある日友人である直也に、さすがに接し方を変えよう、と進言して久美ちゃんを遠ざけてしまった。

    正武の中にその後ずっと後悔が残り、久美ちゃんからは裏切られた、という怨念を持たれる行動をとってしまった。

    一年もした後には久美ちゃんはまたクラスに馴染んでいったのだが、正武に対しては常に睨んでくるような態度をとっていた。それだけ唯一のクラスメイトに裏切られたのが悔しかったのだろう。

    正武もそのことは後悔していて、ついに大人になってもずっと心残りであり謝罪したいと思っていたが果たせないままでいた。この時から仲間外れは絶対にしない、と心に誓った。

    ガキ大将の久敏とは基本的に仲良く遊んだりもしていた。しかし時折久敏が理不尽な要求を子分に言い渡すような場面では正武は素直には従わず、独自の見解ですり抜けていた。

    久敏としても言いなりになるタイプの友人ではないな、という認識を正武には感じていた。

    中学に上がる頃になるとさらに正武は独自の立場を貫く様になる。

    それは兄昂尚からずっと叩き込まされていた、中学になったら勉強で一番になれ、という思想だった。事実兄昂尚は学年トップの成績で学校中に知れ渡っているほど優秀だった。

    地元で有名な進学校に合格をした。

    正武もまた、中学に入ったら勉強で誰にも負けない存在になろう、と考えていた。兄からの洗脳の様なモノだったが、なんだかんだ正武は3歳年上のこの兄の影響をかなり受けてしまっていた。

    中学生になって最初の定期テスト、皆が初体験の勉強における優劣をつけられる結果が出た際に、正武は有言実行で学年トップになった。周りから今までとは違う意味での羨望の目が正武に注がれることになる。

    ガキ大将久敏は学力に関しての優位には正武には到底かなわず、そういった意味では久敏から少し妬ましい存在にもなっていった。

    勉強の方でのライバルも出現したが、中学での成績優秀者は正武以外、小学校のクラスが竹組出身者だった。

    正武はここにもこだわりを持っていて、やんちゃな松組の中でも勉強でも負けないぞ、という旧竹組への対抗心があった。

    当時、中学での部活動はその人のアイデンティティーすら形成されるかの重要な”居場所“だったが、正武は音楽がとても好きだったので吹奏楽部に入ろうと思っていた。しかし兄の昂尚から猛反対を受けた。兄昂尚は学校で一番過酷な野球部に入れ、というわけだった。

    正直野球部は、学校としても親切で、顧問として野球一筋できた様な若い体育教師が肝いりで担当していた。これでは自分が目指す学業に支障がでるのではないかと思い正武は気乗りしなかった。しかし同級生の闊達なメンバーはこぞって野球部に入部した。

    正武はしぶしぶ野球部に入部したが、練習の過酷さゆえに何度も辞めようと思った。

    部活では野球部での過酷な練習をこなしながら、学業でもトップを維持するのにはそれなりの努力が必要になったが、正武は夜遅くまで勉強し、朝も早く起きて練習前にラジオ英語を聞いて行く生活をなんとかこなした。

    結果的に正武達が3年生の最後の大会では地元地区で優勝をすることになった。これは地域では一番小さな学校が、一番大きな強豪校を破ったという事で地元でもちょっとした話題になった。

    最初嫌々だった正武も3年にもなると投げる球にも威力があり、兄とのキャッチボールでも兄が取れないくらいの球威になっていた。

    地元地区で優勝してしまったので部活はまだ先の大会があるので続いていたが、他の部活に入っていた正武の友人たちはもう部活から解放され、受験勉強への態勢となっていた。

    正武は正直、野球で成績を残すよりも、学業でトップになることの方が優先順位として高かったので焦りと、猛練習がまだ続くことへの嫌気にさいなまれていた。

    野球部の大会としては1か月後に県大会、さらに進めば北陸信越大会・全国大会と夏まで続いてしまう恰好だった。正武は他が受験勉強態勢に入っている事に焦りを感じながらも県大会へ向け梅雨の鬱陶しい練習に耐えていた。チームのメンバー内でも「もうこの苦行から解放されたいから次の大会で負けるといいな」という言葉も出始めていた。

    それほどこの監督の練習は厳しいものであった。

    チーム全体としても正武としても、さすがに次は県の猛者が集まるのだから、勝ちあげる訳ない、と思っていた。

    しかし県大会に対戦した相手は、思ったほど強くなく、というのか正武達のチームが強くなっていたのか、試合は余裕で勝つ流れになっていた。

    正武は本気で負けたい!と思ってしまった。ここで勝つとさらに一カ月先まで解放されないではないか、その想いから正武はバッターボックスで一度もバットを振らなかった。

    しかし、結果は空いてピッチャーのコントロール不足によるフォアボールで進塁、このような打席が続いた。続くバッターがバントで2塁に進塁すると、セオリー通り次のバッターがセンター前へヒットを飛ばして正武は普通に走ればホームインできる場面だった。

    ここで正武は、わざとゆっくりと走ってしまった。本当に歩くぐらいの意識でタッチアウトとなった。これで得点にはならず、結果一点差で試合は負けた。

    「やっと終わった、これで解放される」本気で正武は思ったが、ふと周りを見てみると、チームのメンバーは本気で悔し涙を流していた。あのガキ大将の久敏も肩を揺らして泣いていたのだ。それを見た瞬間、正武は「あー、なんて事をしてしまったのだ、俺は取り返しのつかない事をしてしまった・・」

    その日、自宅に帰ってから、試合を見に来ていた母親にその事を話した。母親も「見ていてわかったよ、何をしてるんだ!と言いたかったよ」と言われてしまった。

    恐らくチームのメンバーも正武のわざと負けた行動は分かっていたが、その事を口にするメンバーはいなかった。この事はいつかチームメンバーに謝らなくてはならない、と思いながらも月日は流れていった。

    ここから一生、正武は後悔を背負いこむ事になった。人生の中でたった数ヶ月受験勉強が手薄になるだけで、実際その前後も正武の成績はトップであったし、それよりも誰しもが味わえない県大会や全国大会への出場、という経験を逃してしまった。チームの仲間には本当に謝罪しないといけない、と思っていたがそのタイミングと勇気が出ずズルズルといくことになる。

    正武はその経験を高校時代の国語の授業で「青春について作文を書け」と言われた際に「青春とは後悔である」として書いた。それは国語の先生の目にとまり、授業で代表作として皆の前で読まれた。それだけでも、ほんの少し気が楽になった気がした。

    一緒のチームでピッチャーをやっていたメンバーはその後、高校でも野球部に入り、甲子園のマウンドに立っていた。

    それに比べ自分は何も成し遂げられていない、と不甲斐なさを感じていた。

    高校へ進学してからは、あのやんちゃな松組の出身者が、甲子園球児にもなったり、ガキ大将の久敏は不良高校で番長になったりしていた事を正武も誇らしく感じていた。正武は頭のどこかで自分は松組代表として勉学でトップに立とうと意識して晩学に勤しんだ。

    その後この久敏とは地元の同級会で数回(これは正武が地元を離れていたのでお呼びの声がかかりにくかったこともあるが)会っただけだったが、45歳で久敏は急逝してしまった。

    謝罪しないまま旅立たれてしまった。

  • 孤高の引金 1章

    ~一流になりきれなかった男が企業の頂点に登りつめ、「反逆者」として堕とされた半生を綴る~

    第一章<大器晩成と言われ>

    閏年というのは4年に一度訪れるが、その年は暦上2月29日が存在する。

    1972年3月1日午前1時生まれ、とされているが実際のところは2月29日であったがそれだと今後の人生誕生日が4年に一度しかない、という配慮から病院側としても3月1日午前一時にしよう、と配慮がされた。まだ昭和47年日本の田舎ではその様な四角四面を丸く収める土壌があった。

    生まれた時は未熟児であり、そのまま保育器に入れられた。後に母親から「この子は普通に生きてもらえばそれだけで満足だから多くは望まない、でいた」と告げられた。

    名前は父親がつけたのか祖母がつけたのかハッキリ聞かされた事はないが、祖母から「男として益荒男の道を歩んで欲しい」と命名の由来を聞いたことがある。であるならばこの名前

    でない漢字にすべきではなかったかと子供ながらにモヤモヤしていた。

    浅間正武(まさたけ)という名前、本人は自分のこの名前を気に入ってはいなかった。せめて親がセンスを持ち合わせていて、「正」一文字で「ショウ」とでも名付けてくれたらどれだけ格好良かったか、と残念な気持ちで過ごしていく。しかし3兄弟の名前は昂尚(あきなお)、信康(のぶやす)と皆戦国武将か和尚の名前の様であり、親というか父と祖母はその様な威厳を強く持っている存在であった。

    山国長信州のとある村に3兄弟の次男坊として生まれた。いわゆる江戸時代であれば庄屋のような農家で近隣に田畑を多く持っていたが、戦後の農地解放で多くの田畑をそれまで小作人としていた家々に渡していったようだ。

    このことが後々まで「我が家は豪農であり地域でも優秀な家系、他の人は分け与えられた土地で生活している」という時代遅れな虚栄心を持ち続ける所以であった。

    祖父は日中戦争や南方戦線に出征したが退役してから農業一筋でやってきたが、息子である晴一(正武の父)が20代の頃に脳溢血で急逝した。正武ふくめ3兄弟は皆祖父を知らない。祖母と父母6人家族で育った。

    山間地域の村で山の中というより山を登った台地に集落があった。その村は人口6000人で小学校中学校も一つしかない、信号が一つ設置されたことで村の回覧になるほど田舎であった。

    江戸時代後半に小諸藩から開拓の事業でその台地に田畑を作る為開墾したのだろう。何せ台地なので学校に通うにも買い物に行くにもいちいち峠といっていい程の山坂道を上り下りしなければならない過酷な集落で、台地なので標高も高く660メートルはあり、さえぎる山がないので風も強く、冬などは本当に寒い場所であった。

    しかし景色はさえぎるモノがないので東に浅間山、南に蓼科山を一望でき家の前からは浅間山の稜線が綺麗に見えた。

    この寒風吹きすさぶ台地で育った正武はほっぺたがしもやけ症状で赤くなっていて年中リンゴほっぺという顔であった。正武の幼少期の写真は丸々としており、これは未熟児で生まれた反動で母親が「たくさん食べさせ大きくさせたい」という想いからだったようだ。

    赤いほっぺのまんまる顔、これが物心ついてから正武の外見へのコンプレックスとして悩みの種だった。

    正武の父は一応会社勤めをしながら兼業でそれまでの祖父が維持していた田畑で農業を営んでいた。当時は兼業農家が主流となっていたが多くは2,3枚の田んぼをやっている小規模農家だが正武の父清一田んぼ枚数で言うと10枚、1ヘクタール以上もあり、畑も同様な規模を持っていた。平日に母がやれることをやって、土曜の午後と日曜日に家族総出で農作業をやっていた。

    正武はこれがとても嫌だった。近所に年が一緒の幼馴染がいて兄弟同然に遊んでいた雄一と遊べないのだ。雄一も同じ浅間姓でルーツは一緒なのだろう。しかし雄一の家はわずかな田んぼしかなく、父母共働きの家庭で休みの日をいえば家族で出かけたりしていた。

    「この前どこどこで行って何を食べた」という話をよく聞かされており、なぜ自分は学校の無い休みの日にも田畑に連れていかれ日没まで農作業をさせられるのか、自分の生い立ちを恨んだりしていた。

    父清一は自身がそうだった様に三人息子を農作業の重要な人足としてとらえていた様だ。特に日曜日の夕方暗くなるまで仕事をしていて帰ってきても日曜の夕方やっている定番のアニメさえ終わっている事が多く、次の日からまた一週間が始まるかと思うと本当に泣きそうなくらい切なかった。そして周りが着飾って遊びに行くのに自分は泥にまみれて田んぼ仕事をしている事がなんともみじめに感じていた。

    田んぼのシーズン以外は畑で薬用人参やイモを作っていた。

    大人になってから分かったが、父清一は会社での給与以外に兼業の農家収入があったからこそ息子3人の大学までの学費が賄えたのだろう。父清一は昔ながらの亭主関白であり、息子たちにも厳しく一家のお殿様の様な振舞いだった。母もよく怒鳴り散らされていて、盆と正月に母の実家に帰省する際に子供達も連れて一泊するのが楽しみであったが、その前後は決まって機嫌が悪かった。正武の記憶に鮮明に焼き付いているのは、母の帰省先から帰った時に、父清一の妹一家が訪ねて来ており、お茶出しなどを祖母のきいいがやっていたことに父が激高し、母を殴っていた事だった。

    許せない父だ、と子供ながらに思った。正武は父清一に話をする時にいつも緊張していた。それは恐怖からだ。よく父親に話しかける時に「先生」と言い間違えてしまっていた。

    これは同じく学校での怖い存在「先生」と正武の脳内で整理されていたからであろう。

    3つ上の兄昂尚は幼いころから近所での「神童」扱いされてきた優等生タイプであった。

    しかし意地悪な面があり、正武はよく兄からいじめられて泣かされていた。そのいじめもしつこくいつまでも続くので、正武は最終的に激高してモノを壊したり、素手ではかなわない兄なので凶器を持って暴れたりした。そうでもしないといじめは収まらなかった。

    息子3人の写真アルバムがそれぞれあったが、正武の写真はやはり長男に比べて少なかった。それはうっすらと幼いながらにも正武の心の中に親から受ける愛情の差とも感じ取っていた。

    ・・でもこの程度でいいわ。

    と正武は心の中で一人納まりをつけていた。

    二つの写真がずっと記憶に残っている。

    一つは正武のアルバムにあった幼い正武が兄の乗る三輪車につかまり立ちをしている写真。

    その時に兄の手を見ると、弟の正武の三輪車を握っている手を放そうとしている。

    正武はそれを見るたびに、兄はそうやって手をほどき弟の転ぶ姿を見ていたんだなと感じていた。

    もう一つは弟信康の写真で幼い信康が裸でたらい桶の中に入り体を洗ってもらっている写真。この写真の横に同じくカメラ目線で小さなグローブをはめてキャッチャーの姿勢でこちらを見ている正武の姿だ。しかしこの正武は体半分しか写っていない。

    これを見た時にやはり正武は「生まれたての弟が主役になってしまうのは仕方ないな」と自分自身に言い聞かせていたが、やはり内心寂しさを感じていた。

    兄は賢く優秀で、弟は一番幼いのでかわいがられ真ん中の正武は自分自身でも家の中では控えめになりあまり言葉も少なくしていた。しかし冷静に周囲を俯瞰で見ていたし、それがここの生活での処世術だと感じていた。

    そんな姿を見て、周りに父清一が「こいつは大器晩成タイプだから」と紹介していた。

    それを聞いて、正武は自分自身にもあまり自信が持てずいたが、心のどこかに「子供ながらにあまり期待されてないな、今に見てろ」と思っていた。

    家での生活はとても気が休める場所ではなく、自分を出せる余地もなかった。

    学校にいって友達と遊んだりする時の方が自分を解放出来て、正武は意外と学校は嫌いではなかった。友達とも仲良く、近所の子供たちを集めて、その度に今日は何をやって遊ぶかを考えていくのが好きだった。

    友人関係は豊かで、幼馴染の雄一とは兄弟同然の付き合いであったし、他にも地区で同学年で直也や憲一といった仲良く遊ぶ友達がいた。

     ある日、どうやら小学校から正武の家に手紙が届いた。内容はなんと特別学級への進言のものだった。親は驚愕して、すぐ父が学校に真意を問い合わせたが、どうやらそれは他の児童に向けた特別学級への進言のプリントを裏紙として使ったお知らせだったらしい。なんともお粗末な教員のミスだが、親は若干正武の事に関しては可能性は覚悟をした、とも聞いた。こんな事も含め正武自身は「今は出来損ないだが、いずれ大器晩成なのだから、今に見ていろよ」という気持ちを内に秘めていた。

  • 小説 孤高の引金

    小説 孤高の引金

    一流になりきれなかった男が企業で頂点に登りつめ、「反逆者」として堕とされる半生

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